彼女と知り合ったのは、たまたま同じクラスになったこと、たまたま近くの席になったこと、誰かの助けを必要としていたこと……というただ単純な答えだった。
周りに誰もいなかったし、とても困っていたようだったので「どうしたの?」と声をかけただけだった。
周りに知り合いがおらず、誰にも助けを請うことができなかった彼女は本気で困っている感じだった。
でも彼女の訴えはとても単純で、床に落としたものを拾ってほしいという、誰かの助けが必要なのかどうかも解からない本当に簡単なことだった。
少し遠くに転がっていたそれを拾い持ち主のもとへ返すと、彼女はまるで命を救ってもらったかのように何度も何度もありがとうと同じ言葉を繰り返した。
何が何だか解からず困惑していたおれはしばらく黙っていると、彼女はそれを察したかのように理由を説明し始めた。
彼女は生まれつき目が見えなかった。
だからあんな単純なことでも誰かの手を必要としていた。
こんなおれでも誰かの役に立つことができる本当に単純なことだった。
彼女はすぐに笑顔になっていろんなことを話し始めた。
話しているだけでは本当に普通の女の子と変わらない、ごく普通の一人の女のことのように感じていた。
あの日を機会に、おれと彼女は妙にしたしくなり、いろんなことを話すようになったし、学校帰りにどこかの店で腹を満たすような、本当に普通の「友達」のような存在になっていた。
彼女の名前は澪。
小動物のような小柄さで、とにかくいつも元気が有り余っているようによく動く。
その姿だけを見ていたら目が見えないということを忘れてしまいそうになってしまうほどだった。
今日もいつものように授業が終わり、ふと後ろから声がかかる。
「ねぇ、今日このあと暇?」
澪が授業の疲れを取るように伸びをしながら間延びした声でおれに声をかけていた。
特に用事もなかったし「特になんも」と答えると、
「じゃあ遊びに行こうよ!」
と元気な声で無下を言わさない様子で迫ってくる。
ここでダメと言ったらどうなるんだろうとかふと考えたが、変にぐずられてもしょうがないので承諾しておく。
席を立ち歩きはじめようとしたが、澪はまだ席に座ったまま立とうとしない。
いつもなら澪のほうから先に歩きだすはずなのだが、今日はなぜか椅子に座ったまま立ち上がろうとしない。
怪訝に思い「なんかまだやることでもあるのか?」と尋ねてみると、
「いつも使ってる杖壊れちゃったんだ……。それで、ちょっと歩けなくて」
まるでこの世の終わりを見てきたかのように、がっくりと肩を項垂らせながらそう言った。
言われてみて確かにいつも携帯しているはずの白杖がどこにも見当たらない。
なんとなく今日の澪の様子を思い起こしてみると、いつもぱたぱた騒がしかった澪が今日はとてもおとなしかったような気がする。それが理由だったのかとポンと手を打つ。
「じゃあどうやって歩くんだよ?」
おれがそう問いかけると、
「手、繋いで歩いてほしいの」
凛とした表情でためらいなく澪はそう言った。その言葉におれの頭は凍りつく。
「腕組んでくれてもいいよ?」
澪の追い打ちはさらに続いた。
いつも何を考えているのか解からない澪だが、今日はさらに拍車がかかってしまっているような感じだ。
一方の澪はというと、さっきまでとは打って変わってニコニコと笑顔だった。
「あのさ、手を繋ぎながら歩くって普通に考えておかしくないか?」
「なんで?」
「なんでって……そういう関係じゃないだろおれ達」
「関係もなにも目見えない人と同伴するときは手を繋いだり組んだりするのが普通じゃん。……それともなにかな、変な想像しちゃったのかな?ん?」
澪の言葉に思わずおれの言葉が詰まってしまう。
その間妙な間が出来てしまい、澪は思わずぷっと吹き出して笑っていた。
「いいでしょ?ね?」
その言葉におれはあぁと頷くことしかできなかった。
夕方の商店街。
晩飯の材料を買いに求めてきている人やおれ達と同じぶらぶらと歩いている学生など、人の流れがそれなりに多い。
初めは普通に握っていた手だったが、歩いていくうちにいつしか指を交差させる「恋人繋ぎ」になっていた。
それに関してはお互い何も言わない。
言ったところでまた変にあしらわれるだけだというのが解かっていたからあえて何も言わなかった……というのは屁理屈になるだろうか。
「お腹すかない?」
そう切り出したのは澪だった。
確かに夕飯まではまだ時間はあるが、それまで我慢できるかというとちょっと厳しいという感じの腹のすき具合。
「んじゃあどっか入るか」
おれがそう言い終えるか否かというタイミングで、澪はすばやくこう言った。
「じゃあいつもの定食屋!」
「またかよ……」
「いいじゃん、行こ!」
天使のような悪魔の笑顔。
その台詞は澪のために用意されたのではないかと疑ってしまうくらい今まさにぴったしなセリフだった。
澪に連れられもう何度も入った定食屋。親父には顔を覚えられてるに違いない。
店自体は決してまずくはない。むしろ美味い部類には入るであろう。
だけど時刻は午後5時。
そんな微妙な時間に定食なんか食ったら夕飯なんて入るわけがない。
一方の澪はというと、小柄な体系のくせに一般男性成人並みかそれ以上は食べても全然平気らしい。
食べたエネルギーは一体どこへいってしまっているのか……まさに宇宙の神秘である。
そんな複雑な心中のまま、おれ達はいつもの定食屋へと向かっていく。
「あそこ美味しいからほんと好きなんだよねぇ」
澪は嬉々とした表情を浮かべながら恍惚している。
そんな澪の表情を見ていると、行く前の嫌な気分も何となく薄れていく……そんな気がした。
「澪、券売機の前に着いたぞ」
店の前にたどり着き、ずっと繋いでいた手を話す。
「何がいいんだ?」と訪ねようと横を向くと、澪はすでに財布からお金を取り出し自販機に向かおうとしているところだった。
「歩きながらもうきめちゃったんだ♪」
微笑を浮かべつつ慣れた手つきで自販機へと金を入れて券を取り出す。澪が押した場所を見てみると、豚キムチ丼と表記されていた。
券の配置まで完璧に覚えているのか……勝手知ったるなんとやらってやつだな。
「豚キムチ食うのか、なかなかいいの選ぶじゃないか」
俺がそう言うと、澪は不意に怪訝な表情を浮かべた。
「豚キムチ?……あれ、親子丼じゃないのこれ?」
そういいながら、とりだしたばかりの券をおれに見せる。
「……どう見ても豚キムチだな。親子丼がいいのか?」
「あれ、おっかしいなぁ……?う〜ん……まぁしょうがないか、豚キムチでいいや」
「いいよ、豚キムチおれが食うから。澪は親子丼でいいんだよな?」
「え、いいの?ありがとう!……ごめんね」
そういいつつも、澪はまだなんとなく納得しない表情を浮かべたままだった。
金を取り出し親子丼を買おうと券売機のボタンを押そうとした瞬間、ふと違和感を覚える。その違和感はすぐにわかった。券売機の配置がいつもと違かったのだ。何度も通いなれたからそんなところまで覚えてしまっていたことになんとなくショックを覚えつつ、親子丼の券を買う。
「なんか券の配置がいつもと変っていたみたいだな」
そんなことをいいながら買った券を澪に手渡す。
「あ〜、そうだったんだ」
その言葉にようやく納得したのか、澪は安堵の表情を浮かべた。
店の中に入って一歩、思わず足が止まってしまった。
店の内装ががらりと変わっていて、通いなれたはずの店なのに思わず初めて入った店のように感じてしまったのだ。
周りを見てみると、テーブルの配置から証明の色やテーブルの上に配置されている調味料の位置やら何もかも変わっている。一体いつの間に模様替えなんてしたのだろうか。
「どうしたの?」
立ち止まってしまったおれを訝しく思ったのか、澪が顔をひょこりと覗かせながらそう尋ねてきた。
「内装が変わってんだよ。しかも前とは全然違う」
「えっ……」
一方の澪は、おれの言葉を聞いた瞬間声色が恐くなったような気がした。よく解からなかったが、気にしてもしょうがないのでそのままカウンター席へと澪を案内する。
「いらっしゃいませー!」
店員のにーちゃんの元気な声が店に響く。
にーちゃんはテーブルに置いた券をちぎると店の奥へと入っていき注文した料理を厨房に伝えそのまままた別のことをやり始める。
ふと澪に視線を移す。
なんとなく落ち着かないような感じで下を俯いたまま何もしゃべらない。
いつもと何か様子が違う……そう感じた。
「どうしたんだ?」
おれがそう聞くと、澪は首をもたげおれの方を向く。
「わたし、目が見えないから初めて入る店とか場所とか緊張しちゃうんだ……。だって、なにがあるかわからないから自分一人じゃなんもできないし……。せっかくこの店に通いなれて何とか自分ひとりでできるようになったのに、また何にも出来なくなっちゃった……」
そんな澪の言葉に、おれはあぁなるほどと頷かざるを得なかった。
以前澪の気持ちを少し解かろうと目をつぶったまま生活をしてみたことがあった。だがたった3分で挫折した。
視力が奪われたまま生活をするのは、はっきりいって無理に近いことだった。
どこに何があるかわかりやしないし、まともに歩くことすらできやしない。
澪が今までいったいどれだけの努力をしておれと同等の生活を送っているのだろうか解からない。
そんなおれだって周りの環境が急にがらりと変わってしまったら戸惑ってしまうはずだろう。
それが澪の立場からすると……いったいどうなのだろうか。
今まで忘れていたが、澪とはそうなのだ。
目が見えない割にはよく動くが、その度に苦労をしてきた。
だけど澪はいつも笑顔を絶やすことをなかった。
きっと周りを不安にさせたくないからだとか……そんな理由なんだろう。
だからおれもいつしか忘れていた。
澪はとても弱く、誰かがそばにいてやらないとつぶれてしまう花のような存在なのだ。
「お待たせしましたー!」
にーちゃんの元気のいい声が響き、注文していた料理が目の前に置かれていく。
「……とりあえず、食べよ。ね?」
そう言って、澪は右手をのばしテーブルの端あたりを手探りで何かを探す。しかし手は虚空をつかみ続けなにもない。それをしばらく続けていておれは悟った。
「……あ」
澪が手を伸ばした反対方向にあった箸を取り澪へ手渡す。
「……ありがと」
申し訳なさそうにそれを受取り、おれと澪は食事を始めた。
「美味しいんだけど……なんだかいつもと味が違うような気がする。もしかして、味付けも変わっちゃったのかな」
「そんなことはさすがにないと思うけど……店ががらりと変わったし、どうだろうな」
実際のところ味に違いはないように感じられた。だけど、何かが違うように感じたのも確かだった。澪もきっとそれを言いたかったのだろう。
そのとき、おれの心の中で何かが変わり始めていた。
ずっとごまかしていたが、前から澪を見ているとずっと心がざわついていた。
それがたった今、残り1ピースのパズルをはめたときのように、完全にぱちりとはまった。
「……澪」
「うん?」
「澪の新しい居場所、おれが作ってやるよ」
「……どうしたの突然?」
「なんかこのままほっといたら、お前泣きそうだったから」
「へへ、ありがと。大丈夫だよ、私そんな弱くないもん」
強がりを言って……。
初めて出会ったころの儚さを感じさせてるお前が何を言っているんだと突っ込みそうになったけど、それは言わずいおいといた。
好きだとか嫌いだとか、そんなことを考える前に、たったひとつ、この気持ちだけは確かだった。
『澪を守りたい。何があっても、これからもずっと』
こんなに気持ちが昂ったのは生まれて初めてのことだった。
もし澪が困ってしまうようなことがあったら、おれがどんなときでも助けてやる。
そう心に決めたのに、今一番澪を困らせているのは他ならぬおれであろう。
豚キムチ丼が最後ほう涙の味でよく解からなかった。
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